top of page

10.全体論 ārambhavāda

 

 原子論は、先に示したシャンカラの解説ように、物体を分割していった究極に存在するものとして極微の原子を立てる。原子の存在の設定までは、論理的に明解である。しかし、逆に極微の存在である原子から出発して、パダールタの体系によって説明される現象界がどのように形成されているのかを説明しようとすると、難問が現れる。

 

 原子は目にみえない極微(paramāṇu)の大きさをもつ。そのような原子が集まって、どうして目にみえる大きさ(mahat)をもつものが現れてくるのか。この問題は『唯識二十論』第11頌において批判されるように、原子論にとってアポリアであった。78)

 

 原子論を立てる各派はそれぞれ独自の解答を出したが、ヴァイシェーシカ学派の解答は、「結果は原因とはまったく別の実在である」というものであった。これは伝統的に ārambhavāda と呼ばれる。

 

 ārambhaとは、Hiriyanna(1932 new creation)、宮元(1985 新造)が指摘するように「(原因が結果を)新たに生ずること」である。原因と結果とはまったく異質な存在であるという因果観をとるのがārambhavādaである。

 

 これは一切を根本原質から開展した等質なものとみなすサーンキヤ学派の「因中有果論」(satkāryavāda)と対比して、79) 「因中無果論」(asatkāryavāda)ともいわれる。80) サーンキヤが、結果はあらかじめ原因のうちに存在していて原因から現れてくるとするのに対して、ヴァイシェーシカは、結果は発生以前は無で、新たに生まれるものとする。

 

 ārambhavādaがどのように形成されたかは、VS第7章から、推定することができる。この章は属性の解説に当てられているが、冒頭に先行部分と連結をつけるスートラが三つ置かれる(7.1.1-3)。次いで、加熱による地の色の発生(黒色の粘土が焼か れて水瓶の赤色が発生すること)が扱われる(7.1.4-14)。この後、「どの実体にも属する一般的な属性」が解説される。

 

 ここで、奇妙なことに解説される属性の順序が、属性を列挙するスートラVS1.1.5の「数・量・個別性・結合・分離・遠さ・近さ」の順序と異なって、「量(7.1.15-32)・数・個別性(7.2.1-9)・結合・分離(7.2.10-24)・遠さ・近さ(7.2.25-28)」になっている。「量」と「数」が逆転している。そして、最後に内属が扱われる。(7.2.29-31) 81)

 

 「量」が「数」より先に扱われているが、これは偶然ではない。「量」を解説するスートラ数が多いことから理解されるように、先に論じられるのは、この章において重要な話題だからである。なぜか。

 

 「量」(大きさ)とともに、第7.1章には、もう一つの主要な論題がある。それは、「加熱による色の発生」である。これら二つの主題はともに原子論と密接に結びついている。だから、偶然一緒に扱われたのではない。しかも、「量」と「加熱から生ずる色」という二つの主題は、ārambhavādaの象徴的な事例なのである。

 

 結果が原因とはまったく異質な存在として新たに生まれてくるという因果観は、危うくすると一切が脈絡の無いでたらめな現象であることを主張するかのようになる。82)

 

 ヴァイシェーシカはそのような無因の偶然性に自然が支配されているとは考えない。VSでは決定論の立場を明確に表明している。

 

 「4.1.3 原因が存在するからこそ結果が存在する」

 

 同じ趣旨のスートラは他にもある(1.2.1-2)。83) 因果関係が働きながらも、原因とは異なる実在として、結果が生ずるということを示す良い例が「加熱による地の色の発生」である。粘土が焼かれて元の黒色が消え赤色が発生することをヴァイシェーシカ学派は、原子のレベルにまで分析して「存在していなかった結果を新たに生ずること」(ārambha)が起こると説明した。 84)

 

 ārambhaすなわち「存在しなかった結果を新たに生ずる」という観念は、「加熱による色の発生」の問題だけでなく、大きさの無い原子からいかにして大きさを持つ結果が生ずるかという難問を同時に解決してくれるものであった。「加熱による色の発生」と「量」(大きさ)が同じ章で扱われるのはこのためであろう。この二つは、ともにārambhavādaによって完成された理論なのである。

 

     【目次へ】                           【次へ】

 

 78) 渡辺照宏訳『世界の大思想・仏典』河出書房新社、昭和44年、p.282.

 79) 今西(1978)、茂木(1986)-(1988)、室屋(1996)

 80) Hiriyanna, Outlines of Indian Philosophy,1932(1973),pp.239,273. 宮元(1978)

 

 81) 野沢(1981) pp.459-472.

 82) 因中無果論を批判するサーンキヤ派の次のような有名な詩がある。「(結果は原因の中に)存在しないのであるから、存在性と結びついている作用因との関係が無い。それで、(原因と)関係の無いものに生起(があると)主張するならば、(因果の)法則性がなくなる。」 Yuktidīpikā, Delhi 1967, p.52, Sāṃkhyatattvakaumudī, KSS, 208, p.97, Nyāyakandalī, VizSS, 1895,p.143, Sarvadarśanasaṃraha, Poona 1924, p.323.

 

 83) 4.1.3 kāraṇabhāvād dhi kāryabhāvaḥ. 1.2.1 kāraṇābhāvāt kāryābhāvaḥ. 1.2.2 na tu kāryābhāvāt kāraṇābhāvaḥ.


 84) 宮元(1973) pp.649,50. VS 7.1.12 aguṇavato dravyasya guṇa-ārambhāt karma-guṇā aguṇāḥ.

bottom of page