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9.多元論の様相(4)語と実在の対応説

 

 パダールタ(padārtha)という語について再検討する。58) この語は、VSには、15世紀の注釈書『ウパスカーラ』が伝える後代の付加と推定されるスートラ (U 1.1.4)をのぞいて、一度も用いられない。59) したがって、VSにおいてパダールタの定義がなされることもない。

 

 PDhには「パダールタ」の定義に近いものが現れ(p.16.1)、六つのパダールタの共通性として「がある性」(astitva)」「名づけられること(abhidheyatva)」「知られうること(jñeyatva)」の三つが挙げられる。言い換えれば、パダールタは「存在し、名づけられ、知られるもの」である。

 

 ヴァイシェーシカ学派は外界が実在するという立場をとるので、パダールタとされるものは思考の上の存在である類概念のごときものではなく、すべて独自性をもつ実在である。パダールタの体系において「思考」(推論)は「知覚」とともに思考器官であるマナスの働きにより、アートマンに生まれる「認識」(buddhi)とされる。「認識」は属性の一つであり、実在の一部である。「数」など認識が関わ ることによって発生する属性も概念的な思考上の存在ではなく、「認識」とは独立な実在とされる。誤解されることが多いが、「普遍」も概念ではない。「存在し、知られ、名づけられる」ものとして普遍は実在し、それは「普遍という概念」とは別の存在である。 60)

 

 パダールタが「存在し、名づけられ、知られるもの」であるということは実在は言語によって表現され、言語を通して実在は知られるということである。パダールタ説において言語と実在は対応していると考えられる。 61)

 

 ヴァイシェーシカ学派は、他学派がしばしば認識根拠として独立の権威を認める「信頼できる人のことば」(śabda or āgama 聖言量)を推論(anumāna)の一種とみなすが、その背景には、「言語と実在の対応説」がある。すなわち、ことばは実在と対応している。したがって、ことばは実在の知を生む原因として働く。原因としてのことばを知ることによって、結果としての対象の知を得るので あるから、それは原因を見ることによって結果を推論するのと等しいと考えるのである。 62)

 

 存在と無を区別するためにも、名称(vyapadeśa)が重要な役割を負う。次の二つのスートラの前提として、存在するものは名づけうるという思想が働いている。

 

 「9.1 作用・属性・名称がないから(発生以前の結果は原因の中に)無である。」

 「9.3 作用・属性・名称が存在するから、有は無とは別のものである。」 63)

 

 還元主義的な原子論の立場からすれば、身体は原子の集まりでしかないが、言語と実在の対応説によれば、「身体」という語に対して“身体”という実在が、「頭」に対して“頭”、「耳」に対して“耳”が存在し、身体、頭、耳はそれぞれ互いにまったく別の実在と認められる。

 

 実在するものが有るから、ことばによる表現が成立する。64) この思想はPDhに明白に現れ、各パダールタの定義に「言語表現(vyavahāra)の原因」あるいは「観念(pratyaya)の原因」の類語が多用される。66)

 

 パダールタ説においては、実在するから言語表現が可能になると考えられる。シャンカラはこのような思想を次のように批判する。ヴァイシェーシカが語と実在の対応を根拠として「常住」の否定である「無常」という語が存在するのは否定される「常住なもの」が実在するからだと主張する。これに対してシャンカラは次のように述べる。

 

 「単に語と対象(artha)の [結びつきの] 慣例(vyavahāra)だけによっては、或対象の実在の証明(prasiddhi)は成立しない。...他の認識手段によって立証された語と対象の関係が慣例として[世に] 行われるからである。」(金倉訳 p.481、 SBh on BS 2.2.15)

 

 「実体」の原語 dravya は、文法学の伝統では類(jāti)や形相(ākṛti)と対比される「個物」である。パタンジャリの『マハー・バーシュヤ』(MBh)において「語の意味するものは何か」が論じられ、「個物」あるいは「形相」であるとされる。

 

 「語の意味するものは形相か、それとも個物(dravya)か。どちらでもあると答える。なぜそれが分かるか?師(パーニニ)によって、両方の意味でスートラが書かれたからである。」 67)

 

 NSではdravyaに代えて 「個物」(vyakti)という表現が使われる。68) 文法学派の伝統において dravyaは、九実体説における不変な存在としての「実体」を表わすdravyaとは異なって、現象している無常な存在である「個物」を意味する。 VSにおいてもパダールタ説の層と考えられる部分においては、dravyaが究極の実在という意味ではなく、知覚されことばで表わされる現象物の意味で用いられている。たとえば――

 

 「1.1.7 有であり、無常であり、実体を有し、結果であり、原因であり、普遍・特殊を有するということは、実体・属性・運動に区別がない。」

 「1.1.8 諸実体は別の実体を生ずる。」 69)

 

 先に見たとおり、九実体説において「実体」は原因としての実体をもたない常住なものであった。それが、ここでは「無常であり、結果である」とされ、複数の実体から構成されるものと考えられている。この実体は知覚の対象となる具体的な「個物」である。

 

 有の普遍(sattā)が実体ではないと説くVS 1.2.9においても、九実体説とは異なる実体観が出る。

 

 「 1.2.9 (有の普遍は)一実体を有するものであるから、実体ではない。」 70)

 

 九実体説においては、「実体を有しないものが実体」であったが、ここでは「一実体を有するものが実体ではない」と説かれる。注釈者は、これを「実体は、実体を有しないものか、多くの実体からなるものである」と解釈する。71) すなわち、多くの実体から構成されるものも実体と認める。これは実体から構成されるものを実体と認めない九実体説の実体観とは異質な実体観である。

 

 ヴァイシェーシカ学派は、このような個物を主として実体と見る実体観をおそらく文法学派の言語観から継承したのであろうと思われる。72) もちろんこのことは、先程言及した文法学派の「語の意味するもの」の議論が、そのままヴァイシェーシカ学派のパダールタ説になったとか、文法学派の実体観をヴァイシェーシカ学派がそのまま引き継いだということを意味するのではない。

 

 MBhの作者パタンジャリの実体観は、ヴァイシェーシカ的というよりも、むしろサーンキヤ・ヨーガ的であるとされる。すなわち、実体がヴァイシェーシカにおける「属性の基体」としてではなく、「性質の統合体」として理解されている。73) 属性の配列に関しても、ヴァイシェーシカの「色・味・香・感触」という順序ではなく、パタンジャリの場合はサーンキヤの的な傾向を示して、プラクリティから開展する順序、すなわち「音声・感触・色・味・香」になっている。 74)また、samavāyaのようにヴァイシェーシカの用語と同じ語でもまったく異なる意味で用いられるものがある。(atha kaḥ samavāyaḥ / varṇānām ānupūryeṇa saṃniveśaḥ / MBh I, p.13.5. The word samavāya here means mention of letters in a specific order. K. V. Abhyankar Patañjali's Vyākaraṇa-Mahābhāṣya, āhnika 1-3, Poona 1975, p.46.)

 

 一方ではヴァイシェーシカ思想のような要素もある。75) その代表はMBh冒頭のヴァイシェーシカのパダールタを連想させる実体・運動・属性・形相への言及である。76) これらはヴァイシェーシカ思想からの影響と理解されることが多いが、パタンジャリの思想とサーンキヤ・ヨーガ的な傾向の一般的な一致を考慮すれば、むしろヴァイシェーシカ説の先駆思想と考える方が良いであろう。VSの成立は、『大毘婆沙論』での言及から紀元後1世紀後半から2世紀前半までと考えられる。パタンジャリの年代は、一般に紀元前2世紀頃とされている。ヴァイシェーシカ学派のはじまりを紀元前2世紀頃とする説が現在有力であるが、それはこのパタンジャリへの影響の可能性を見ているからである。77) しかし、VSの成立年代との差を考慮すると、パタンジャリの年代が紀元前2世紀から動かないのであれば、そこに現れるヴァイシェーシカ的な要素は先駆思想と見る方が穏当と考えられる。

 

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 58) Halbfass(1992) p.76f, Narain (1976) p.33f.

 59) Nozawa (1976), p.(37).

 60) Nozawa (1994)

 61) このような言語観に基づく世界観は、ナーガールジュナの『中論』において鋭く批判される。今西(1987) pp.57-87.

 

 62) この問題はVSでは、9.19-21で扱われる。この部分は推論の解説の後に続く一節である。 「9.19これ(推論)によって、ことばによる知が説明された」「9.20(ことばで表わされるものにとって、ことばとは何かというならば、) 理由であり、根拠、徴表、機会因、知識根拠、原因である。以上(の語)は同義である。」[注釈]ことばが(知の)原因であるとしても、どのようにして(ことばで)表わされるものの知に対する徴表となるのかというので、(次のスートラが説かれる)。「9.21 これ(ことば)はこれ(ことばによる知)の(原因である)という知を補助因とすることから」 VS 9.19: etena śabdaṃ vyākhyātam. 9.20:

 hetur apadeṣo liṅgaṃ nimittaṃ pramāṇaṃ kāraṇam ity anarthāntaram. 9.21: asyedam iti buddhyapekṣātvāt.

 

 63) VS 9.1: kriyā-guṇa-vyapadeśābhāvād asat. 9.3: asataḥ sat kriyā-guṇa-vyapadeśābhāvād* arthāntaram. See f.n.19)

 

 64) 了因と作因という原因の分類についてNozawa (1994) p.838参照。

 65) vyavahāra-hetu (pp.63.21,111.3,130,20), vyavahāra-kāraṇa (p.138.5), pratyaya-nimitta (p.139.13,151.4,164.3), pratyaya-kāraṇa (p.11.12,311.17,21), pratyaya-liṅga (p.63.16,66.20), pratyaya-hetu (p.14.8,312.12,324.20)

 

 66) これをVSの「時間」を説くスートラと比べると興味深い。「2.2.6 近いものに対して遠い、同時・同時でない、遅い・速いというのは時間(の存在を示す)徴表である。」( VS 2.2.6: aparasmin paraṃ yugapad ayugapac ciraṃ kṣipram iti kāla-liṅgāni.)両者で使われる語は、よく似ているが、PDhが言語表現と実在の対応関係から「時間」を定義しようとするのに対し、VSは実体としての「時間」の存在論証をしようとする。

 

 67) Mahābhāṣya I, p.6.8: kiṃ punar ākṛtiḥ padārtha āhosvid dravyam. ubhayam ity āha. kathaṃ jñāyate. ubhayathā hy ācāryeṇa sūtrāṇi paṭhitāni.

 

 68) NS 2.2.64: vyaktyākṛtijātayas tu padārthaḥ. 65: vyaktir guṇaviśeṣāśrayo mūrtiḥ.

 

 69) VS 1.1.7: sad anityaṃ dravyavat kāryaṃ kāraṇaṃ sāmānya-viśeṣavad iti dravyaguṇa-karmanām aviśeṣaḥ. 1.1.8: dravyāṇi dravyāntaram ārabhante.

 

 70) 1.2.9: ekadravyavattvān na dravyam.

 71) See Candrānanda's Vṛtti p.9.9.

 72) この実体観と文法学派の adhikaraṇaやpravṛttinimittaという観念との関係について、宇井(1924) p.85, Matilal(1971) p.108, 谷沢(1996) pp.(173)-(183)参照。

 

 73) Matilal(1971) p.103.今西(1988) p.153. パタンジャリは実体を次のように説明する。 MBh II, p.366.14-26.(Scharfe p.80):「また何が実体で、また何が性質か。音声・感触・色・味・香が性質であり、それと異なるものが実体である。さて、実体は音声など(の性質)と異なるものか、それとも異ならないものか。彼は、性質の存在に基づいて実体に関して音声を用いて説明する。『音声などと異なるものが実体である』と。 [反対論者]実体は音声など(の性質)と異ならない。なぜなら異なるものが知覚されないから。たとえば家畜が解体され百の小部分にされても、音声など(の性質)と異なるものは知覚されない。[返答]実体は音声など(の性質)と異なるものである。その本体は推論によって理解される。たとえば、草や木の成長と減退(が大きさの変化によって推論され)、天体の運行(が場所の移動によって推論される)ように。この(実体の場合の)推論はどのようなものか。この場合は、(次のような推論である。)同じ高さと大きさでも、銅には綿とは異なる重さが有る。この差異を生み出しているものが実体である。同様に、あるものは 触れるだけで切れる。あるものは押し付けられても切れない。この差異を生み出しているものが実体である。同様に、あるものはただ一度の打撃で(ものを)破壊するが、あるものは二度(の打撃に)よっても破壊しない。この差異を生み出しているものが実体である。あるいは、他の諸々の性質が現れてもその本体が消滅しないところのものが実体である。その本体とはなにか。その存在がその本体である。すなわち、マンゴーなどの果実には赤などや黄色などの性質があらわれるが、マンゴー、ナツメはそのまま存在する。ところで、(実体の)語源は明解な意味を持つ。『性質の集ま っているところが実体である (guṇasamdrāvo dravyam) 』」

 

 74) Scharfe(1961) p.79、野沢(1987) pp.165.

 75) 宇井(1924) p.53.全体と部分の問題は、次を参照。MBh II, p.366, 379-380, Scharfe(1961) p.124,125.


 76) Mahābhāṣya I, p.1, Scharfe, p.132.77) 宇井(1924) pp.53,63.

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