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7. 実践・努力--自力主義

 

 ブッダの教えは、「真理を悟ること」による安らぎを究極の目的としている。そのために智慧が重視され追求される。しかし、それは単に知識を獲得すればよいということではない。知識があるだけでは聖者といわれない。

 

 「世の中で、善き人々は、見識、ヴェーダの学識、智慧があるからといって、(誰かを)聖者であるとはいわない。(欲望を)制し、悩みなく、無欲となった人を、わたしは聖者という。」(Sn.1078.)

 

 悟りは宗教的な体験である。それは真理を「理解すること」ではあっても、「分別によって概念的に理解すること」ではない。

 

 「内的にも、外的にも、いかなることがらをも知りぬけ。しかしそれによって慢心を起こしてはならない。それが安らぎであるとは真理に達した人々は説かないからである。」(Sn.917.)

 

 智慧は分別による知ではない。体験されるべきものである。教えにそった行いを通じて、安らぎという理想の体験に向かって努力することが求められる。

 

 「その理法を知って、よく気をつけて行い、世間の執着を乗り越えよ」(Sn.1053.)

 

 「熱心に努力せよ。思慮深く、思念をこらして、わたしのことばを聞き、自分の安らぎを目指して訓練せよ。」(Sn.1062.)

 

 ブッダの基本姿勢は自力主義である。

 

 「他人が解脱させてくれるのではない。」(Sn.773.)

 

 世俗の生活を離れ、みずから安らぎを求めて努力することが理想とされる。1)

 

 「この世のものはかならずなくなるものであると見て、在家にとどまっていてはならない。」(Sn.805.)

 

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 1) 原始仏典には、説法の相手が仏教徒ではない場合、その末尾に、ブッダの教えを聞いて喜び、ブッダへの帰依を表明して、在家信者として受け入れてくださいという願いを述べる部分が多くの場合ついている。

 

 『スッタニパータ』でも散文の部分では、それがみられる。たとえば、第 1章 7節に現れる婆羅門バーラトヴァージャ、あるいは第 2章 7節の婆羅門たち。

 

 しかし、韻文の部分には、そのような表現は現れない。たとえば、Sn.1067.では「わたしは、その最上の安らぎをうけて歓喜します。それを知って、よく気をつけて行い、世の中の執着をのりこえましょう」と自らの努力の表明がなされる。これと同じ表現はSn.1085にも出る。

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