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6.多元論の様相(1)原子論

 

 ヴァイシェーシカ学派の思想の多元論的な性格は、まず物質観として原子論を採用することに明確に現れる。原子論は本質的に要素還元主義的な指向をもつ思想で、雑多な様相をもつ現象も単純な要素の組み合わせに還元しうるとする。現象の多様性は要素的存在(原子)の複合の仕方の相違と解釈され、多様な存在は、究極的にはごく少数の要素的存在に還元されうると考える。ヴァイシェーシカ学派の原子論を手際よく紹介するのはヴェーダーンタ学派のシャンカラである。

 

 「世間では、実に部分から成り立つ実体の布等は、まさに自体に適合した・結合に助けられた・糸等の実体によって、産出されていると認められている。これと等しく、およそ部分から成り立つものである限り、その一切はまさにそれ自体に適合した・結合に助けられた・それぞれの実体によって、産出されたと理解せられる。またそれから部分と全体の区分が消え去るところのもの、それが逓減の極限 (apakarṣa-paryanta)[すなわち微小の 極点]に位する極微(paramāṇu)である。またこの全世界は、山や海を初めとする部分から成り立つ。そして部分から成り立つ[合成物である]が故に、始めと終わりがある。また、原因なくしては結果は生じ得ないので、極微が世界の原因であるという。これがカナブヂ(Kaṇabhuj 勝論の祖)の意見である。」(金倉圓照訳 p.474、 ŚBh on BS 2.2.12)

 

 古代インドにおいて、パクダ・カッチャーヤナやアジタ・ケーサカンバリーの要素論がヴァイシェーシカの原子論の先駆思想として存在した。 31) このうちアジタの要素論は、自然のすべてを物質的な地・水・火・風の四要素によって説明し、明らかに唯物論的傾向を示す点で、古代ギリシアのデモクリトスの原子論に似ている。これらの思想は、自然界の多様な存在をすべて原子あるいは要素に還元する傾向が認められる。

 

 デモクリトスの原子論によれば、色などの性質は習わしとして存在するだけで真実には原子と空虚があるのみとされる。物質だけでなく、精神すらも原子から構成されている。そして、すべての原子は等質で、世界の多様性は、原子の形態と配列と位置から生まれる。32)これは原子と空虚の二元論、あるいは空虚を無視すれば原子一元論といってもよい。アジタの要素論もこれに極めて近い。

 

 これに対し、ヴァイシェーシカの原子論はより一層多元論的で原子が質的な差異を持つ。原子は地・水・火・風の四種に分けられ、固有の属性によって差異化されている。固有の属性は「ヴァイシェーシカな属性」(vaiśeṣikaguṇa)と呼ばれる。VSによれば、地には香り(gandha 2.2.3)火には熱さ(uṣṇatā 2.2.4)水には冷たさ(śītatā 2.2.5)風には感触(sparśa 2.1.9,10)がある。33) 四要素は、デモクリトスの原子論では、原子によって構成されるもので、したがって等質の原子に分解されるものであるが、ヴァイシェーシカでは原子自身が差異化されている。

 

 因みに、この原子論はアニミスティックな性格をもたない。ジャイナ教には、地・水・火・風を生命ある物質とみなす思想がある。六生類として「地・水・火・風・植物・動物」を挙げ、地などの要素を生き物とする。34) ヴァイシェーシカ学派には、このような生命ある要素という観念はない。原子の構成する「結果」は、身体・感覚器官・対象物の三種に分けられれ、物質的な領域に限定されている。PDhには、四要素のそれぞれの形成する身体が享受の主体であるかのような表現があるが、あくまでもアートマン(行為主体)の享受の手段的な地位を占めるのであろう。 35) この原子は、基本的に機械論的な因果関係に支配されている。36)

 

 ヴァイシェーシカの原子論が多元論的な、多彩・複雑な様相を帯びるのは、原子を等質なものへ還元するのではなく、逆に四種の原子それぞれに固有の性質を認め、差異化(vaizeSika)する点にある。その世界観の驚くべき無限性はここから生まれる。しかし、その実在の多様性は「差異化された原子論」だけでは説明できない。ヴァイシェーシカ学派ではこれら原子のほかに、空虚にあたる虚空だけでなく、時間・方角・アートマン・マナスという物質的存在とは異質なものが独立の実体とされ、さらに属性、運動、普遍、特殊、内属が別個の実在として立てられる。ヴァイシェーシカの体系が原子論と原子論的思考に限定されていたならば、もっと単純な体系になっていたであろう。 37)

 

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 31) Ui(1917) p.25. Basham(1951) p.269.

 32) Diogenes Laertius II, tr.by R.D.Hicks,London 1925, p.453: His opinions are these. The first principles of the universe are atoms and empty space (atomons kai kenon); everything else is merely thought to exist. The worlds are unlimited; they come into being and perish. Nothing can come into being from that which is not nor pass away into that which is not. Further, the atoms are unlimited in size and number, and they are borne along in the whole universe in a vortex, and thereby generate all composite things--fire water, air, earth; for even these are conglomerations of given atoms. And it is because of their solidity that these atoms are impassive and unalterable. The sun and the moon have been composed of such smooth and spherical masses [i.e. atoms], and so also the soul, which is identical with reason. We see by virtue of the impact of images upon our eyes.

 All things happen by virtue of necessity, the vortex being the cause of the creation of all things, and this he calls necessity. The end of action is tranquillity, which is not identical with pleasure, as some by a false interpretation have understood, buta state in which the soul continues calm and strong, undisturbed by any fear or super-stition or any other emotion. This he calls well-being and many other names. The qualities of things exist merely by convention; in nature there is nothing but atoms and void space. These, then, are his opinions.

 

 アリストテレス『形而上学』p.985b.(出隆訳、岩波全集 p.20、21): レウキッポスとその仲間デ モクリトスとは、「充実体」と「空虚」とがすべての構成要素であると主張し、前者をあるもの(存在)だといい 後者をあらぬもの(非存在)だといった。即ち、これらのうちの充実し凝固しているものはあるものであり、 空虚なものはあらぬものだとしている(だから、彼は「あらぬものもあるものに劣らずある」ともいっている、 というのは空虚のあるは物体のあるに劣らずとの意である)、そしてこれらをすべての事物の質料としての原 因であるとしている。なおまた、さきに基体としての実体を一つであるとした人々が、他のすべての事物の 生成をそれの受動態であるとし、この受動態の原理として希薄と濃密とをあげたように、同じ仕方で彼らも また、その差別を他のすべての受動態の原因であるといっている。ところで、彼らの説によると、その差別 に形態と配列と位置との三つがある。というのは、彼らはいずれの存在もただそれの格好と並び具合と向き だけで差別されるといっているが、ここで格好というのは形態のこと、並び具合というのは配列のこと、向 きというのは位置のことだからである。たとえば、AとNとは形態により、ANとNAとは配列により、エ とHとは位置によって差別される。さて運動についてはそれが何からはじまりどのように諸存在のうちに起 こるか、他の人々とほとんど同様に彼らもまた、顧みないで放置している。

 

 33) PDhは説が異なり、火には色、水には味と本有の流動性、地には香り、風には感触という vaiśeṣikaguṇaがある。(95.24:rūpa-rasa-gandha-sparśa-sneha-sāṃsiddhikadravatva-buddhi-sukha-duḥkhecchādveṣa-prayatna-dharmādharma-bhāvanāśabdā vaiśeṣikaguṇāḥ.)

 

 34) 谷川(1988) p.75.

 35) PDh 27.22「(地からなる)身体は二種あり、胎生と非胎生とである。そのうち、非胎生は、白(精 液)と赤(血液)によらない神々と仙人たちの身体で、特殊なダルマ(徳)をともなう原子によって生まれ る。蚊や蚋の苦しみを受けるための身体は、特殊なアダルマ(悪徳)をともなう原子によって生まれる。胎 生は白と赤の結合によって生まれる。それには二種類あり、母胎生と卵生とである。人間、家畜、野獣の(身 体は)母胎生である。鳥、蛇のは、卵生である。」

  PDh 36.4「そのうち、(水からなる)身体は非胎生のみである。ヴァルナの世界において地の(原子の) 部分との混合から(苦楽の)享受ができる。」

  PDh 39.3「(火からなる)身体は、非胎生のみで、アーディティヤの世界において、地の(原子の)部 分との混合から(苦楽の)享受ができる。」

  PDh 44.7「そのうち、(風からなる)身体は非胎生のみである。マルト群神らの世界において、地の原 子の部分との混合から(苦楽の)享受ができる。」


 36) 野沢(1990) 1.2.1 kāraṇābhāvāt kāryābhāvaḥ. 4.1.3 kāraṇabhāvād dhi kāryabhāvaḥ.37) Lysenko(1994)

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