top of page

1.自然観とはなにか

 

 東洋には「自然」という概念がないから自然観がないといわれることがある。この議論は、「自然観とは自然という概念をめぐって形成されるものである」という理解を前提としている。しかし、はたしてそうか。そこでまず「自然」と「自 然観」という語について、完全なものではないとしても、以下の論考を可能にする程度の概念規定が必要と認められる。

 

 「自然」は、一般には精神(主観)に対する外界世界で、人間および人工的なものを除いたすべてというほどの意味で用いられている。ところが、「自然観」という熟語の中の「自然」は、広く物質的存在も精神的存在も含む宇宙万物を意味していることが多い。たとえば、近代西洋の「機械論的自然観」には、人間をも機械的な存在として理解する思想も含まれている。自然を鑑賞の対象としてではなく、その本質や存在の哲学的追究の対象として扱う場合、人間と人間の関わるものをそのうちに含むのは当然といえよう。

 

 ヴァイシェーシカ学派の「自然観」の解明を課題とするこの小論においても、「自然」は物質的・精神的な存在のすべてを含むものとして扱う。この意味での「自然」は、「万物」とほぼ同義語である。この概念にもっともよく対応するサンスクリッ ト語は「すべて」「一切」を意味するsarvamであろう。2)

 

 「自然観」とは、第一義的には自然とは何かという問いへの解答となるもので、普通には「自然」についての包括的な観念であるが、より厳密には自然の本質論、あるいは「自然」という概念の内包的な定義という形式をとる。しかし、自然観 はこれにとどまらない。

 

 近代西洋の機械論的自然観にせよ、アリストテレスの目的論的自然観にせよ、自然の変化、現象がいかなる原因に基づいてどのように起こるかという問題に関する固有の見解の上に成立している。すなわち、「本質論としての自然観」の他に「因果論としての自然観」がある。

 

 さらに、アリストテレスの自然観が形而上学(メタ自然学)と表裏一体の関係に有るように、「自然観」には、自然を構成するものについて、どのような存在構造をもつか、あるいは実在とは何かを問う「存在論としての自然観」もある。 したがって、以下の論考では、ヴァイシェーシカ学派の「実在」と「因果」をキーワードとして、その実在論および因果論の検討を通して、この学派が初期において有していたと考えられる自然観の解明を試みる。

 

     【目次へ】                           【次へ】

 


 2) この意味でのsarvamは、VSには現れないが、NS4.1.25, 29, 31, 34に出る。

bottom of page