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3.ヴァイシェーシカ学派の「実在」

 

 以下において、「実在」が問題とされるので、この学派の「実在」とは何かを論じておく。「実在」の観念は、VSでは曖昧な形でしか現れないが、PDhにおいて明確に現れ、次のような階層構造をなしている。すなわち、「実在」は、「実体であること」、「 有の普遍(sattā 有性)の内属」、「がある性 (astitva 存在の動詞 asti と関係しうること) を本質とすること」の3つのレベルに分けられる。

 

 パダールタのうちあらゆる存在の基体となるものは「実体」であり、他のパダールタはすべて実体に依存(内属)する。「実体であること」が「実在」の第一のレベルであるが、何が実体であるかを規定しているのは「実体性」(dravyatva 実体の普遍)である。したがって、「実体であること」は「実体性が内属していること」といい換えられる。これが「実在」の第一のレベルである。

 

 次いで、実体、属性、運動は、通常の知覚の対象(artha)となるもので、これらは有の普遍(sattā)が内属すること(sattāsambandha)によって「有」(sat)といわれる。 13) これが「実在」の第二のレベルである。

 

 さらに、他の三つのパダールタ、すなわち普遍・特殊・内属も実在とされるが、これらの「実在」は有の普遍によるのではない。六パダールタは、いずれも存在の動詞 asti を用いることによって「有る」(asti)と表現される。「存在の動詞 astiと関係しうること」は「がある性 (astitva )」といわれる。14) この性質を有することが実在の第三のレベルである。ところで「がある性」は、どのパダールタにも共通な-tva(性質、あるいは本質)であって、「普遍」ではない。15)「有の普遍」をもたない普遍・特殊・内属の三パダールタは、この「がある性」を本質とすること、いいかえれば「有であることを本質とする」(svātma-sattva)ことによって「実在」であるとされる。 このように六パダールタはすべて「実在」(sat)とされるが、以上の三つのレベルに分けられる。

 

 VSにおいて、これら三つの実在のレベルは明示されないが、内属因(他のものが内属する基体)としての実体(1.1.14)、通常の知覚の対象(artha)としての実体・属性・運動(8.14)、それらに関係する普遍と特殊(1.2.8-18、 8.6)という存在のレベルの差は一応曖昧ながら区別されているようである。 ただし、普遍・特殊と実体・属性・運動との関係が内属であると明言されず、 第10章の因果論においても内属因としての実体(10.12)、非内属因としての属性と運動(10.13-18)を解説するのみで、普遍・特殊との関係は触れられない。

 

 このような不明確さはVSが「六パダールタ説」をとっていたことを疑う根拠となる。16) とりわけ「無」の位置づけをめぐるVSの立場は混沌としている。「存在」(bhāva)は、「有の普遍」(sattāと同一視され、17) 「非存在」(abhāva)は存在の 単なる欠如体のように扱われながらも、18) 一方では「無」(asat)は、「有」(sat)とは別のものとされる。19) VSのこの曖昧さは、後代「無」を独立のパダールタとして認めるか否か学派内に見解の対立を生むことになった。PDh作者のプラシャスタパーダはこれを認めなかったが、ほぼ同時代(5-6世紀頃)と考えられる慧月はこれを認めた。後代、特にウダヤナ(10-11世紀)以降、「無」は第七のパダールタの地位を与えられ、これが学派の定説となった。この場合「実在」の意味はPDhの場合とでは自ずから異なる。この問題は、Halbfass(1992:p.154f.)に詳しいのでここでは触れない。20)

 

 しかし、「無」を実在とみなすパラドクスめいた実在観がどのようなものであるかについて触れておかないわけにはいかない。その萌芽はVSにある。現代のわれわれは実証主義に強く影響されて、知覚(感覚)をほとんど唯一の実在の基準とする傾向をもつ。この基準からは無を実在とすることは理解しがたい。

 

 ヴァイシェーシカ学派も知覚を実在の基準とするが、この他にもまったく異なる実在の基準をもっていた。それは「言語と実在の対応」で、知あるいは言語表現の成立は対象の実在を前提としていると考えた。“兎の角”というものはどこにも存在しないが、“「兎の角」という表現の原因となるもの”が実在しなければ「兎の角」という語は生まれないという。この発想法は実在の数を爆発的に増加させる。

 

 ヴァイシェーシカ学派は、ことばの世界を自然の中に取り込んだ。彼らの自然は物体的な自然よりはるかに広く、ことばの世界、物語の世界とみなされる世界も含まれている。しかもそれは単なる思考の上の存在なのではなく、あくまでも実在であると意識される。異なった立場において概念とみなされるものが、ヴァイシェーシカ学派では外界の実在とされる。それ故、「普遍」も「特殊」も「無」も知覚の対象とされる。21) 知の根拠は実在にあるという姿勢をかたく崩さないことが、「実在の種類と数の驚くべき多さ」を有する多元論的実在論を根底で支えている。

 

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 13) 野沢(1993)pp.8f.

 14) astitvaを Halbfass(1992)p.77は isness,factuality, objectivity と訳す。 ibid. p.144:In this sense, astitva can be applied to anything that is an enumerable and classifiable ingredient of the world, including reality itself. ibid. p. 156: Udayana, the latest of the classical Praśastapāda commentators and the pioneer of Navyanyāya, defines astitva as "being the object of (i.e., accessibility to) affirmative awareness" (vidhimukhapratyayaviṣayatva) and, furthermore, as "ascertainability without reference to a counterentity" (pratiyogy-anapekṣa-nirūpanatva). Cf. パダールタがastitvaを有することに関連してアリストテレスのカテゴリー論についての次の解説は 興味深い。 Guthrie(1981) p.141: The chief interest of the list is that it shows Aristotle prepared, probably at an early date, simply to enumerate a number of ways in which the word 'is' can be used.

 

 15) Tattvasaṃgraha (Varanasi 1968 ) G.571f.「がある性」は、普遍のような独立の 原理ではないので、「内属」や「結合」によって関係するものではなく、パダールタの個々に本質として属 するものとされる。 Narain (1976) p.90, cf. Potter(1977) p.141.

 

 16) Halbfass(1992) p.75.

 17) VS 1.2.4 bhāvaḥ sāmāyam eva. 1.2.18 salliṅgāviśeṣād viśeṣaliṅgābhāvāc caiko bhāvaḥ.

 

 18) dravyaguṇakarmavaidharmyād bhāvābhāvamātraṃ tamaḥ.

 19) VS 9.3 asataḥ sat kriyāguṇavyapadeśābhāvād* arthāntaram. (* -śabhāvād ?) See Motegi(1988) pp.(1)-(8), Halbfass(1992) p.242.

 

 20) 「無」を実在とする思想は、ラッセルが「記述の論理」を考案するきっかけを作ったマイノ ンクの実在論と似たところがある。Russell(1905) p.45: This theory regards any grammatically correct denoting phrase as standing for an object. Thus 'the present King of France', 'the round square' etc., are supposed to be genuine objects.マイノンクが論理的に不可能な存在で ある「丸い四角」を“object”として認めるように、ヴァイシェーシカ学派の中にも「兎の角」 や「石女の子」など絶対的な無(畢竟無)を“padārtha”として認める立場がある。

 
 21) VSの第8章から第9章のスートラ17までは知覚を扱うが、「無」はその中の9.1-12で解説さ れる。

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