ここは哲学と東洋思想の小さな宇宙です
A tiny world of philosophy and oriental thoughts
2.ヒンドゥー教の起源
ヒンドゥー教とヴェーダの宗教とでは、信仰形態や儀礼が明らかに異なる。しかし、ヒンドゥー教の最高神とされるヴィシュヌもシヴァも、ヴェーダと密接なつながりを持つ。ヒンドゥー教とヴェーダの宗教は異なるとはいえ、境界線はあまり明確ではない。いつヒンドゥー教が始まったかも定かではない。しかし、ヒンドゥー教が広がっていくのは、仏教興隆後であるということはいえる。
紀元前4世紀、マケドニアのアレクサンドロス大王(356-323BC)がインドに侵攻した。その影響を受けて、紀元前4世紀末、チャンドラグプタがマウリヤ朝を興した。ギリシア人のメガステネスは、チャンドラグプタの治世に、シリア王セレウコス・ニカトール(301-280BC在位)の大使としてインドに駐在し、インドでの見聞を書き残した。彼の報告書はあいにく現存しないが、引用断片が現在も伝わっている。その中で彼は、「ディオニュソスの信仰」や「マトゥーラ地方でのヘラクレス信仰」について伝えている。ディオニュソスはシヴァ、ヘラクレスはクリシュナを指すと考えられる。この頃には、すでに民衆の間にシヴァ信仰やクリシュナ信仰が広まっていたようである。 1)
その後、アショーカ王がマウリヤ朝第3代の王として、およそ紀元前268年から232年まで統治した。王は、激しい戦争の後に、多くの流血をひき起こしたことを深く反省し、仏教に帰依した。多数の仏塔・石柱を建てさせ、碑文を刻ませた。現存するアショーカ王の碑文のうち、第7 Delhi-Topra碑文には、当時の主要な教団として、仏教(サンガ)、バラモン(ブラーフマナ)、アージーヴィカ派、ジャイナ教(ニルグランタ)の名がでる。この碑文の記事から推定すれば、当時は、仏教やバラモン教が支配的で、ヒンドゥー教のシヴァやヴィシュヌの信仰は、すでに広まっていたとしても、まだそれほど盛んではなかったか、あるいは、ヴェーダの宗教と明確な差異が認められず、「バラモン教」として一括されたのであろう。
この頃、作られた『シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド』(6.7,9)には、ヒンドゥー教のシヴァ神信仰の要素が認められる。2)
また、ヒンドゥー教の信仰を伝える主要な文献は、二大叙事詩『マハーバーラタ』と『ラーマーヤナ』、そしてプラーナ聖典で、これらの文献の現在の形が完成するのは、ずっと後の紀元後のことであるが、その元になるものは、このマウリヤ朝の頃から形を整え始めた。二大叙事詩もプラーナ聖典も、数百年かけて付加や変更が加えられ、現在の形態が完成したと考えられている。
原始仏典、とりわけ仏伝(ブッダの伝記)には、梵天(ブラフマー)、コブラの神ナーガ、大蛇の神マホーラガなどさまざまな民衆の信仰の対象であったと思われる神々が登場する。ブッダがその下で悟りを開いたとされる菩提樹も、神が宿る樹木として先住民族によって崇拝されていたものである。紀元前1世紀頃は、後に「夜叉」と音写されたヤクシャ(男神)、ヤクシー(女神)が信仰を集め、その像が多く作られた。3) 後のシヴァ像や菩薩像の先駆になったとされている。
注
1) 『世界の名著 バラモン教典・原始仏典』p.44.
2) 中村元『ヒンドゥー教史』p127.
3) ヤクシャ、ヤクシーは、樹木に住む聖霊で、恐ろしくもあり、恵み深くもある不思議な力を持つ神として、多産豊穣・病気治癒・子孫繁栄など幸運を願う民衆に広く信仰された。宮治昭『インド美術史』吉川弘文館、1981年、p23.