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8.多元論の様相(3)知覚と特殊(viśeṣa)

 

 多元論を敢えてとる思想とは、たとえば、知覚を存在の基準とし、知覚されるがままの多様な現象をそのまま実在と認める思想である。西洋では、経験論的な認識論を根底とする思想に多元論的な傾向が認められる。

 

 VSにも、知覚を存在の基準とする説がある。たとえば、次の二つのスートラはその良い例である。

 

 「 9.6 (消滅したものの)「無」という知は存在していたものの知覚がないことから、存在していたものの想起から、(存在と)相反するものの知覚から(生ずる)。」41)「 9.7 そして同様に(結果が発生する以前には)無(であったこと)については、(現在の結果の)存在の知覚から(「無」という知が生ずる)。」 42)

 

 知覚の成立には「特殊」(viśeṣa)が重要な役割を果たす。 43)

 

 「 8.6 実体・属性・運動の(知覚は)普遍・特殊にもとづく」 44)

 「 10.11 頭、背中、腹、手という(知は)それぞれの特殊による」 45)

 

 それぞれのものがそれぞれのものとして認識されるのは、それぞれのものに内属している「特殊」の働きによる。「特殊」は実体・属性・運動のすべてに内属している。 存在とは何かに関連して次のNBhの一節は興味深い。

 

 「NS 4.1.38 (反対論者は「一切は無である」と主張するが)そうではない。存在には独自性が確立しているから。

 

 [NBh] 一切は無ではない。なぜなら、独自性をもって諸々の存在は存在しているから。独自の性質をもって諸存在は存在していると主張される。 諸存在の独自性とはなにか? (諸存在の独自性とは、)実体・属性・運動に関しては、「有」などの「普遍」であり、実体に関しては「運動を有すること」などの「特殊」であり、地(など個々の実体に関しては「色」から)「感触」までの(「属性」であり)、個々(の存在)には無限の差異がある。(さらに)普遍・特殊・内属に関しては「特定の性質」が(独自性として)認められる。一方、無には実在する対象がないから、何らかの観念を生ずる対象の区別はないであろう。しかるに、(存在には)これがある。それ故一切は無ではない。」(NBh p.264.1)

 

 ヴァイシェーシカ説によれば、外界の対象(artha)は、すべてそれぞれの存在の有する固有の性質によって差異化されている。46)たとえば、「牛」という同じ名で呼ばれるものも、一頭一頭が独自性を有する個性的な存在である。47)ヴァイシェーシカの多元論には、「知覚される特殊による多元性」が含まれている。48)

 

 ところで、しばしばヴァイシェーシカ学派は経験主義的で知識根拠として知覚を優先するという説明がなされるが、これは当たらない。そのような解釈はフラウワルナー説を代表としてかなり広まっているが、49) 観察に基づく理論はVSには2.2.1など少数の例しかない。50) VSの第1章第2節の普遍の存在論証、第2章第1節から第3章第2節における風をはじめとする目にみえない実体の存在論証、そして第4章の原子の存在論証を見る限り、VSは知覚と同じく推論を知識根拠として重視している。 51)

 

 基本的にヴァイシェーシカ思想は、ことばによる知の枠組みに依拠して実在とされるものをパダールタの体系として立てる合理論的な思想である。52) したがって、ヴァイシェーシカの「知覚されるがままの多元性」は、唯名論的な傾向を示すことはない。

 

 知覚のみを存在の根拠とする唯名論の立場では、個々のものが独自性をもつものとして知覚され、共通性は概念として形成されるだけで、実在しないとする。現象を「縁起」によって説明する仏教の思想には、この唯名論的傾向がある。

 

 NS 4.1.34-36 は、一切を個別的な存在だとする仏教の経量部の主張と思われる思想を批判している。経量部は「分解して元の名前を失うものは仮象であり、失わないものは実在である」という唯名論的な立場をとる。53) 分解は原子にいたるまで終わらない。そこから「一切は(原子の)複合体であり、(構成するものの相違に基づいて)個々に異なる」という主張が現れる。同じ「水瓶」という名で呼ばれても一つ一つはそれぞれ異なるというのである。これに対して、ニヤーヤ学派は「複合体はバラバラなものの単なる集まりではなく、(部分の集合とは異なる)全体として単一体をなしていて、これがことばと対応している」という立場をとる。54)

 

 「存在の特質は、名称語 (saṃjñāśabda) によって表わされるが、それは単一体を意味することが定まっている。『私は見た水瓶に触る』『触ったのと同じ物を私は見る』といわれるように。(「水瓶」という語が用いられる時)原子の集合は理解されない。原子の集合が理解されないとき、理解されるものは、(水瓶という)単一体のみである。」 (NBh on NS 4.1.36, p.260.10) 55)

 

 このニヤーヤ学派の議論は、そのままヴァイシェーシカ説でもあると理解してよいであろう。ディグナーガは、ヴァイシェーシカの知覚説批判において、これとほぼ同じ内容の「同一の実体が異なる感覚によって捉えられる」という議論に 言及する。 56)

 

 ニヤーヤ・ヴァイシェーシカの知覚説によれば、知覚は、対象(artha)・感覚器官・アートマン・マナスの四者の接触から成立するもので、同一の対象について、異なる感覚器官による知覚が成り立つことを認める。単一の対象を複数の感覚に よって捉えることが可能であるとする説は、「混合説」(saṃplava)と呼ばれ、外界の実在論証によく用いられる。57)

 

 実体・属性・運動のすべては「特殊」によって差異化されている。しかし、一切が差異化されている一方で、ヴァイシェーシカ説によれば「全体」は単なる部分の集合とは別の実在であり、「全体」の各々には「普遍」が内属している。し たがって、ことばが指示する対象は一つ一つが多様な独自性をもつ存在という側面を持ちながらも、一方では普遍を有し、名称を表わす語はこの多数のものに共通な一個の普遍を意味している。「全体」を認めることによって無数の「個物」の 実在が開かれると同時に、それらにともなう「普遍」が実在の列に加わった。

 

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 41) VS 9.6 asad iti bhūtapratyakṣābhāvād bhūtasmṛter virodhi-pratyakṣatvāc ca jñānam.

 

 42) VS 9.7 tathābhāve bhāvapratyakṣatvāc ca.

 43) Nozawa(1993) pp.(7)-(13).

 44) VS 8.6 sāmānyaviśeṣāpekṣaṃ dravyaguṇakarmasu.

 45) VS 10.11 śiraḥ pṛṣṭham udaraṃ pāṇir iti tadviśeṣebhyaḥ.

 46) 区別知を生ずる原理として「特殊」とよく似た原理に、「個別性」(pṛthaktva) がある。これは、属性に分類されるのであるが、実体について「これはあれと別の ものである」という、それぞれが独立した存在(実体)であることを認識させる原理 (属性)である。

 

 47)「これはxではない」という知は、別の原理によって生まれる。この知は “これ(y)”と“x”との間に成立する「相互無」(anyonyābhāva)によって生ずる。 ここにヴァイシェーシカ学派の「言語表現に対応して実在を立てる」パダールタ説の 性格がよく現れている。Athalye(1918, 2nd. ed. 1974) p.164.

 

 48) したがって、「属性」も個物に属するものは、「特殊」により差異化され ており、反復性をもたない。この点で「普遍」と明確に区別される。Potter(1954-55), Halbfass (1992) p.122.

 

 49) Frauwallner(1958) p.134.

 50) 野沢(1988) pp.185-204.

 51) Potter(1977) pp.43-44.

 52) 野沢(1989)pp.161-178、 Nozawa(1991) pp.25-38.

 53) 御牧(1988)p.239.

 54) 梶山(1983) p.166.

 55) TattvasaaMgraha G.556-562. 菱田(1993)p.87f.

 56) Hattori (1968) p.44.
 57) Matilal (1986) p.252. NS 3.1.1: darśana-sparśanābhyām ekārtha-grahaṇāt.

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