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5.多元論の定義とその一般的問題

 

 ここで多元論の一般的な問題に触れておく。多元論とは複数の原理・要素によって世界を説明する理論である。一あるいは二の原理によって説明する一元論あるいは二元論と区別される。一般的には二も複数とみなして、二元論も多元論の一種とするが、単数・両数・複数を区別するサンスクリット語の数観念に慣れている我々には、二元論は多元論と異質に感じられる。構造主義のように、二元対立に構造を生みだす根源性を認める思想が有ることを考え合わせるとき、この区別は無意味ではないであろう。

 

 さて、多元論的な知的探求、たとえば未知の存在を見出し、存在のリストに加えることも重要な仕事とされるのではあるが、それ以上に、多様・雑多なもののうちに統一的な原理を見出すことが一般的に学知として尊重される。ここには、「説明に要するものは少ないほどよい」という原理が働いている。これはインドでは、「 lāghava(節減の原理)」と呼ばれ、西洋では「オッカムの剃刀の原理」、あるいは「マッハの思考経済の原理」として知られている。29) 古代インドにおけるその見事な活用の実例は、パーニニ文法である。30)

 

 この原理は人間の知に深く根をおろしているといっても過言ではない。この原理の下では、多様な存在が単純なものに還元され統一され、ごく少ない原理による世界の説明の確立が追究される。

 

 しかも、多様な原理の設定が必ずしも複雑な現象の説明を容易にするわけではない。二元論的な碁と多元論的な将棋とでは、前者の方が複雑なゲームになる。この対比から理解されるように、多元論では諸原理が固有の性格を与えられるために、それが限定的に働き複雑な世界を構築できないことがある。歴史的に有名な思想には一元論や二元論が多いのは、このような事情があると考えられる。

 

 では何がヴァイシェーシカ学派に多元論をとらせたのか。古代思想には、世界の多様性を説明するため複数の原理・要素を立てるものが多い。古代ギリシアの自然哲学者達や古代インドの自由思想家達には、明らかにこの傾向が見られる。確かにヴァイシェーシカの九実体説は、その伝統を継承するものと考えられる。しかし、この学派の自然観の複雑さは、要素・原理の多元性だけからは説明できない。以下、その多元論的実在論がどのような思想構造をもつか究明しよう。

 

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 29) Matilal(1968) p.83.30) Staal(1988) p.153f.

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