こだわりのないこころ
~ いまを生きる ~
かつて修行道場(平林寺)に入って間もない頃、
坐禅堂内を司る先輩(直日さん)から叱られたことが
あった。早朝本堂で朝課をあげている間、当番は薄
暗い中で堂内の掃除をする。堂内に祀られている
文殊菩薩の前に三拝するためのゴザが置いてある。
それを掃除の時、裏返して敷いてしまったのを見付
けられたのだ。「ゴザの裏表が分からないで、人の
心の表裏が分かるか。」と。
またそれから1~2年経った頃、掛搭(入門)して来た
ばかりの新到さんを板戸の暗い部屋に通し、朝課の時
おこしに行ったら着ているものが何か変だ。
手燭を近づけよく見たら法衣を裏返しに着ていたのだ。
迂闊だったそれまで法衣が何の問題もなく裏返しで
着れることを知らなかったのだ。知らないというのは
そういうことなのだ。
ゴザや法衣の裏表の間違いは大したことではないかもしれない。しかしよく知っている人から見たらとんでもないことで、大変なことなのだ。でも綺麗な面を単に表と名付け、そうでない面を裏と名付けただけならそう深い意味はないことになる。かの日、直日をつとめていた先輩僧はもっともらしく「ゴザの裏表が分からないで、人の心の表裏が分かるか。」と言っていたが、私は「人の心に一体裏表などあるのか、法衣だってリバーシブルで裏返して着てもいいのだ。」とその時思った。
このように、「表」と「裏」、「良い子」と「悪い子」という風に、普通の人は、分けて考えるが、これは、頭で考えたもので、そのような区別はもともとなく、実際には、「人の心に一体裏表などあるのか、法衣だってリバーシブルで裏返して着てもいい」というのが仏教、特に禅のこころなのだ。
このように二つに分けて頭で考えることを仏教では「分別」と言い、「差別(しゃべつ)」と言う。
仏教、特に禅、では「分別」は正しいことではなく、「無分別(分けて考えない)」を正しいとする。
この「無分別」を「平等」とも言い、仏教哲学用語では、「不二(ふに)」とも言う。
ある武将が甲斐向嶽寺の開山となった抜隊得勝禅師に問うた
「如何なるかこれ和尚の道徳。」
答えて曰く「昨日の雨、今日の風。」と。
和尚の道徳とは何ですかという問いに、「昨日の雨、今日の風。」と答えている。
武将が和尚に道徳(仏法に従った生き方)とは何かを問うたのに対する答なのだ。
同じように、中国の禅で、『趙州(じょうしゅう)録』の第1則に、
師、南泉に問う、「如何なるか是れ道。」
泉云く、「平常心(びょうじょうしん)是れ道。」
師(趙州)が南泉に「仏法に従った生き方とは何ですか」と問うた。
南泉は、「平常心(びょうじょうしん)が仏法に従った生き方だ」と言った。
南泉普願禅師は、趙州従諗禅師の師匠で、いずれも中国の禅師で、当代の一、二を争う名僧である。
趙州従諗禅師の若かりし頃の問答である。道とは、仏教を道教的に表現したもので、仏教の法
(ダルマ:dharma)のことである。
禅では、「平常心」を「へいじょうしん」と読まずに、「びょうじょうしん」と読むとも言われている。
「へいじょうしん」とは、「異常(たとえば戦場)」なときにも、「平常」なときと同じように平静にできることを言うが、
これは、「異常」と「平常」と二つに分けている。すなわち、「分別」である。
「びょうじょうしん」とは、「異常」と「平常」と、もともと二つに分けない思考法である。「無分別」である。
「良い子」と「悪い子」を分けて、「悪い子」にも良いところがあるので、「良い子」なんだというのは「分別」である。
すべての子どもがあるがままの、そのままで、「良い子」であるというのを、「無分別」という。
仏教、特に、禅はこのこころである。
抜隊得勝禅師は、「良い日」と「悪い日」と二つに分けるという分別(ふんべつ)をせず、「昨日が雨だったからと言って、悪い日でもなく、また、良い日でもない。今日は、風だったからと言って、昨日より悪い日でもなく、また、良い日でもない。昨日は昨日でそのまま好日であり、今日は、今日でそのまま好日である」ということなのだ。
これを『碧巖録』では、第6則の「雲門日日好日」という。
(この「雲門日日好日」はもっと深い意味があるが、・・・・・)
人間は、「良い生き方」と「悪い生き方」と二つに分け(分別し)、「良い生き方とはこうなんだ」ということに固執したがる。これは法執(ほっしゅう)という執著(しゅうじゃく)である。こだわりのこころである。三大煩悩という貪・瞋・癡(とん・じん・ち)の中の「癡(ち)」の現れである。禅では、「良い生き方」と「悪い生き方」があるのではなく、「今生きていること、そのものが立派な生き方なんだ」という考え方であり、それを「いまを生きる」という。
合掌 住職 亀 廣之