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やすらかなこころ

やすらかなこころ

~ 坐禅は安楽の法門 ~

 「分け入っても分け入っても青い山」

 これは山頭火の句で最も有名なものである。悩みを抱え、歩く姿が重く感じられる。どうしょうもない、辛い辛いと思いながら歩む人は山頭火ばかりではない。誰にでも長い人生の中ではそういう状態になることは時としてある。そこからどうしたら抜け出せるか。あがけばあがくほど、袋小路に迷い込んでしまう。

 

 私はかつて上座部仏教の勉強のため、スリランカで暮らしたことがあった。

 もうパーリ語の経も忘れてしまったが、短いパーリ語の一節が頭に残っている。

 「ドゥッカージャーティプナンプナン」声に出して読むと語呂が良く面白かったので忘れなかった。

 数年前に必要があって、調べてみたら『ダンマパダ(法句経)』第153の一節であることが分かった。

 色々な訳があるけれど、友松圓諦師の訳では

    この存在(よ)なる幻の屋舎(いえ)を/誰ぞ作りし/さがし求めて/ついに究めず/

    かくて数多き生存(いのち)の/輪廻をば経きたれり/この生もかの生も/

    ひとしく/苦しみなりき

とある。

 山頭火の姿と重なってくる。しかし同じ『ダンマパダ』の中では苦からはなれる道も示している。

    第277で

    「すべてのものは無常なり」/と かくのごとく/智慧もて知らば/

    彼は/その苦をいとうべし/これ清浄に入る道なり」、     (諸行無常)

    第278で

    「すべてのものはくるしみなり」/と かくのごとく/智慧もて知らば/

    彼は/その苦をいとうべし/これ清浄に入る道なり」、     (一切皆苦)

    第279で

    「すべてのものはわがものにあらず」/と かくのごとく/智慧もて知らば/

    彼は/その苦をいとうべし/これ清浄に入る道なり」、と。   (諸法無我)

 

 これが四諦(したい:苦集滅道)とともに釈尊の最も大切な教えであり、四法印と呼ばれ、その中の「諸行無常」、「一切皆苦」、「諸法無我」である。

 

 禅では次のような問答が語録の中にある。

    僧問う、「如何生老病死を出離することを得ん」。

    師曰く、「青山元動ぜず、浮雲の去来するに任す」(『五灯会元』巻四、霊雲志勤禅師)

    ある僧が霊雲志勤禅師に「どうしたら生老病死の苦から抜け出ることができますか」と尋ねた。

    禅師は「青山は元々ここにあって、その周りを迷いの雲が行ったり来たりしているだけだ」

    と答えた。

 ここの青い山は初めに書いた山頭火の青い山とは全く違う。

 迷いの山ではなく、動かない山――自己の本性・仏性――である。

 しかし、これが自己の本性という固定観念に取りつかれた瞬間に、その青山は山頭火の迷いの青い山になってしまう。

 

 有名な公案集である、『無門関』の第41則に禅宗の祖、達磨大師とその弟子神光(じんこう)との「達磨安心(だるまあんじん)」という公案がある。

    達磨面壁(めんぺき)す。二祖雪に立つ。臂(ひじ)を断(き)って云く、

                   「弟子は心未だ安からず、乞う師安心せしめよ。」

    磨云く、「心を将(も)ち来れ、汝が為に安んぜん。」

    祖云く、「心を覓(もと)むるに了(つい)に不可得なり。」

    磨云く、「汝が為に安心し竟(おえあ)んぬ。」

    後に禅宗第二祖、慧可となる神光が面壁している達磨に心が不安である、安心させて欲しいと

    乞うてきた。

    それに対し達磨はその不安の心を持って来れば安心させてあげようと答えた。

    神光は不安の心を求めるに求めることができないことが分かった。

    すると達磨は汝のために安心させ終わったと言った。

 

 これを「心不可得(しんふかとく)」という。

 「こころは把りだすことができない。」、

 「われわれの心性は本来無自性であって、これが心であると認めるべきものがない」

                                 『佛教語 大辞典』

 「こころというものは実体として存在しているものではない。すなわち、空(くう)である。」

いうことである。

 山頭火や神光が求めていた「こころ」は、存在していなかったわけである。

 

 これが、前述した、ダンマパダの第279の「諸法無我」(すべてのものはその実体がない)ということであり、「こころ」も実体がないのである。

 

 また、臨済宗の祖、臨済義玄禅師は、『臨済録』:示衆の中で、

    是れなんじ若し不動清浄の境を取って是と為さば、なんじ即ち他の無明を認めて郎主と為す。

    (お前たちが、もしその不動清浄の境地をもって正しい悟りだとしたならば、

    また別の無明(癡)という煩悩・迷いをこころの本体と思い込むようなものだ。)

 と言っている。

 

 禅宗の祖、達磨大師も臨済宗の祖、臨済義玄禅師も「不動清浄の境地」

求めること、そのものが迷い・煩悩である、と言っている。

 

 青い山(こころ)は、雲(煩悩)がかかると雨が降り、暗くなる。

雲が去り、陽が射すと、明るくなる。暗いこころがあったり、

明るいこころがあったりするのではない。

 

 波は、風が吹くと、大きくなる。風が休むと小さくなる。

波を静かにさせようと、波がしらを押さえようとすると波はますます

大きくなる。

 

 こころも同じで、こころを静めようとするとこころはますます騒ぎ

だすものだ。

 

こころが静かになり、不安な状態から、やすらいだ状態になったものを、

仏教では「定(じょう)」という。雲の行くにまかせ去るにしたがい、

吹くにまかせ、そのままに坐禅の禅定を通し、こころがやすらかに      

なるのである。 これを「坐禅は安楽(こころのやすらぎ)の法門」という。

合掌  住職 亀 廣之             

坐禅(平林寺)

参考リンク

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