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慈しみのこころ

慈しみのこころ/幸せを願うこころ

~ 瞋(いかり)のこころを滅する ~ 

 修行道場では「ムー ムー」「無 一枚になれ」「大死一番絶後に蘇る」等耳にたこができるほど聞かされ、また警策に打たれては坐禅三昧たらんと「気海丹田に気を集め、禅定力を養え」として一日が過ぎていく。作務(さむ)をしていても「無 無 無」と。老師の所へ参禅しても「無」、新到さんは他のことなど考える余地は全くなくなってくる。これが日常的に修行道場で行われていることである。それでも数年すれば見性までは無理にしても、体に身についてくるものだ。語録も少しかじり、その難解さに辟易としながらも、逃げるわけにもいかない。

 

 日本の修行道場では、このように「無」になることを至上に修行をするが、そこでふっと、思った。「お釈迦さんのお説きになった(原始・初期)仏教でも同じように厳しい修行をやっているのだろうか」と思い、手づるを探り、スリランカの寺にお世話になる手続をして旅に発った。直接に行かず、遠回りにヨーロッパから陸路インドまで行き、スリランカに渡ることにした。インドにたどり着くまでには様々なことがあったが幸いイラン革命やアフガン戦争の直前で何とか通過することができた。仏跡の巡拝をして、スリランカという仏教の国にたどり着いた時はこころからホッとした。 スリランカ人僧にまじりアジア数カ国から来ている僧たちとの生活が始まった。

 

 その生活の詳細を書くことはここでの意図ではないので、これくらいにして、紹介され訪れた「Burmese Vipassana Meditation Center」(ヴィパッサナー瞑想)について触れておく。そこには2週間ほど滞在し、ビルマ(ミャンマー)人の指導者から丁寧に指導を受けた。

 

 日常はクティ(小舎)という狭い部屋で坐り、小屋の

脇に経行(キンヒン)つまり坐り疲れた後、足の接地な

どに意識を集中しゆっくり歩く場所がある。食事とト

イレと指導者の所に行く以外はそのクティで過ごすの

だ。入門者のため難しいことはしなかったが、そのク

ティの有り難さと冒頭に書いた禅道場での生活の落

に驚きつつも得がたいものに接することができた喜

を感ずることができた。そのほか2~3カ所の林の中

瞑想センターも訪れた。それは先ほどのようなヴィ

ッサナー瞑想をやっているところではなかった。けれ

ど、特にゴムの林の中にあるクティでの瞑想は私にと

って「シャングリラ」であった。かつて修行道場で同   

行僧と独接心(どくぜっしん)――ひとりで思うままに 

坐り通す修行――を夢に描いた時もあったが、まさにそれが実現できたのであった。 スリランカから帰ってきて、しばらくこれからどうするか考えていたら、師匠が僧堂に戻ったらどうかという。何の抵抗もなく、また再掛搭をした。私にとって外国に行ってカルチャ・ショックはなかったが、日本に戻ってからの修行の違いについてのカルチャ・ショックが大きく、戸惑いはいつまでも続いた。

 

 このように、日本の禅の修行道場とスリランカの原始仏教に近い部派仏教・上座部(テーラワーダ)の瞑想では、あまりにも違いが大きいが、そのどちらもが、悟りに達する方法の違いであることが、私には、なかなか理解できなかった。

 

 この疑問は、ある日、読んでいたダンマパダ第368のことばによって氷解した。

 

    仏陀(さとれるもの)の教えに/信じ悦び/慈しみに住する/比丘は/

    行い(はからい)の息(や)みたる/寂静にして/さいわいなる/かの道に達せん

 

 「慈しみに住する/比丘は」これは大変大切なところである。慈はパーリ語でmettaというが、これは友という意味のmittaから来ているという。真実の友情を意味するという。それは特定の人に対してではなく、全ての人に対してそうでなければならない。万人に対するものなのだ。分け隔てをしないということは一切の衆生(すべての生命)にこころを配ることでもある。また悲はパーリ語ではkarunaという。あわれみ、同情という意味がある。 慈悲はそれら無量の命に対する限りなく大きな優しさなのである。かつて私自身はヴィパッサナー瞑想において入門の、初心者向けのことしか実践できなかった。今勉強してみるとその時もヴィパッサナーでは慈悲の瞑想というものを心に置いて指導されていたのだと知り、35年前のことを思い出しながら得心した。

 

 マッジマ・ニカーヤの経典の中で、釈尊は、次のようにおっしゃっている。

 

    慈の瞑想を深めなさい。

    というのも、慈の瞑想を深めれば、どんな瞋恚も消えてしまうからです。

    まず「私が幸せでありますように」と念じたら、

    次に、「私の親しい人々も幸せでありますように」と念じる。

    それから「生きとし生けるものが幸せでありますように」と。

    次に、「私の嫌いな人も幸せでありますように、

    私を嫌っている人も幸せでありますように」と

    するとどんな瞋恚も消えてしまう。

 

    悲の瞑想を深めなさい。

    というのも、悲の瞑想を深めれば、どんな残虐性も消えてしまうからです。

    「私の悩み苦しみがなくなりますように、

    私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように、

    生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように」と念じ、

    次に、「私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように、

    私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように」ということも念じる。

    するとどんな残虐性も消えてしまう。

 

 日本の禅の修行道場では、「無一枚になる」ことを目指して、貪・瞋・癡(とん・じん・ち)という三大煩悩(三毒という)を叩き潰す修行をやる。一方の釈尊の原始仏教に近い部派仏教・上座部(テーラワーダ)やヴィパサナー瞑想では、「嫌いな人の幸せを願う」という慈悲の瞑想によって、「瞋(しん)」という煩悩を滅し去る。やりかたは違うが、慈しみのこころというものが存在するのではなく、「瞋」という煩悩が滅することによって、慈しみ、優しさ、思いやりの行為ができるのだ、ということがいまさらながらに納得したわけである。

 

 修行道場の体育会的な修行によっては、慈しみや優しさや思いやりが生まれようがない、と思っていたが、いまさらながら、あの厳しい修行が慈悲の修行であったことを思い、有り難さでいっぱいである。

合掌  住職 亀 廣之   

スリランカ マウント・ラビニアにある

パラマ・ダンマ・テェーティア寺 の施設にて

参考リンク

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