top of page

般若心経

行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄


だまって坐ればぴたりとあたる、

一切の苦厄を度したまう

問いがあり答を求める
苦しみがあり救いを求める
或いは生きる意味を求める
答も救いも生きる意味も、

求めるよりももっと手っ取り早いものです
答も救いも生きる意味も、今・既に、です
木の葉や鳥の声、喜怒哀楽
これが、答であり救いであり生きる意味です
こんなに簡単なことは無いです
「私」という身贔屓が無いだけです
「このままでいい」と言う間も無いです
このままなら「このまま」と言うまでも無いです
もっとも手っ取り早いものです

曹洞宗 泉龍山 宗福寺
​住職 小林霊樹

川上雪担老師.jfif

川上雪担老師の事 原始野蛮人

 これは度々言われました。老師に参じていれば「自分を観察しない」という事だろう、という事はわかります。しかし、わかってもしょうがない。で、どうか。知るものが無い。不識と言い、或いは、花は自分を知らないの喩えの通りです。

川上雪担老師の事 人を見るな、法を見ろ

 照見五蘊皆空という事。内容を問うのでないです。
 タイに移住した参禅者がいて、旅程とか全部手配してくれるというので、他の参禅者数人とお供で行ってきました。ホテルにオイルマッサージというのがあって「よし、やってみよう」といって、やってもらいました。こっちはほとんど全裸で、却って緊張しました。その後に老師が言う事には「あのお姉ちゃんを救った。」と言うのです。「この爺さんは何を言っているのだ。」と、その当時は思いました。が、やっぱり老師が言う通りなのです。言葉だけが方便ではないです。また、「何を」言ったり為したりするのか、ではなく、「何が」、が問われています。
 ある時、空中に手をやって、「虚空とこれ(自らの体を示して)とは等価だ。」と言いました。チンプンカンプンではないにしても、やはりわかりませんでした。で、やっぱり老師の言う通りです。自らを問うという事は無いのですから、無いというか成り立たないのですから、虚空だろうともこれであろうとも同じです。
 体の有る無しも、問うところではないです。生と言い死と言っても、同じ事です。死んでみて初めて生です。

感応道交

 僧堂安居の時分に原田雪渓老師に「『どうしてお仏壇にお参りするのですか』と尋ねられたら何と答えますか。」と問われ、答えられませんでした。「感応道交して、あなたも同じ仏ですよ。」と、言われました。感応道交という言葉も知らなかったですし、よくわからなかったです。
 感応道交という何かしらの境涯なのかと思いましたが、何の事はない、眼耳鼻舌身意・色声香味触法です。仏壇にお参りすれば即ち自分とは仏です。こちらから自分が見るのではなく現れているものが自分です。自分とは、現れているものっきりです。自分を対象化して自分を解説するという事が成り立ちません。茶碗や山や鳥の声といった現れているもの、これを見たり聞いたりして、これを茶碗や山や鳥の声と「わかる」のではないです。茶碗や山や、鳥の声、これは自分です。自分と言うだけ不要です。茶碗や山や鳥の声、これは、茶碗や山や鳥の声です。この他に何かあると思うなら、その分だけが、不安や苦しみや悩みや疑問が有ると思い込んでいる原因です。無いものを有るはずだと思い込んでいれば、永遠に解決はありません。それではどうかしてしてしまうのも道理です。
 「わかる」のではない、とは、言葉や判断能力の欠如というのではないです、言葉とは、手段です、道具です。いつともなしに、それと知らないうちに、必要に応じて使用するに至ったものです。見たり聞いたりするものを言葉という手段を介して「わかる」のは、そのものの実際をわかる事にはなりません。
 他人事じゃありません。元から感応道交しています。

生死

 修証義の冒頭「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり」と、あります。「生とはどういう事か、死とはどういう事か、を本当に知ることが仏教徒にとって大事である。」と、言っています。ここで、本当に知る、とはどういう事か。
 自転車の乗り方を知っているという人はいないです。自転車の乗り方を本当に知っているとは、自転車に乗れるという事です。自分の身心で実際に行われています。言葉で理屈で知っているのは、本当に知っているとは言えません。
 それでは、「死とはどういう事か」を本当に知る、とはどういう事か。しかも、想像ではなく実際にです。
 常識と思われている事で言えば、生命活動が終了して棺に入っていれば、これは死だな、と。しかし、たった今この瞬間には生命は活動し棺にも入っていません。ですから、死を常識的に考えるのでは、死を本当に知る事にはなりません。
 死んだ人はどんな様子か。棺に入った人を見ると、「遂に一切の生命活動が止まった。」と、わかります。しかし、それは棺に入った人を見た感想です、他人の言い分です。棺に入っている当人はどうなのか。自分が死んだ事も知らずに、棺の中で横たわっています。死が実際に行われている様子とは、死んだ事すらも知らない、自分を全く知らない、という様子です。生命活動の云々は外から見た他人の言い分です。或いは、知識・考えの上での事です。
 ですから、死の実際とは身体の有る無しを問うていません。自分の内容を問うていません。問う人がいないです。ということは、これは、別に棺に入っていなくてもいい事です。更には、たった今の様子であってもいい事です。ですし、実際そうです。
 「生を明らめ死を明らむる」とは、生と死と別々の事を言っているのではないです。死を本当に知って初めて、本当に生を知るのです。

十重禁戒の第一、不殺生戒。一般的には、殺すことなかれと言われます。
しかし、これは、修行方法・努力目標を言っているのではありません。仏の様子を示しています。不殺生戒だけではないです。
誰でも等しくこの戒をよく保っている時があります、棺桶に入ってしまえば戒を破りようが無いです。生命活動が無くなったから、ではありません。遂に、私を知らないからです、私を問う人がいないからです。
ということは、棺桶に入るのを待つまでもないのです。私を知らないとは、どんな人間か・どんな生活をしているか、とか問うところではないのです。こんな簡単なことはないです。だからって、何をしてもいいんだと自分を認めれば、一生軛から逃れられないです。只の自堕落です。

己の取り得

「(中略)ほんとうの悟る、二三日は興奮して眠れなかった由、もっともこれを長長出させて本来のものになればよし、おのれの取り得などいう中途半端じゃそりゃなんにもならんです。」

 雪担老師の生前の書き込みです。

 悟りを言う人がいない。悟る人が元からいません。それにもかかわらず、悟りをもって坐禅の基準とすれば、却って不寛容な人間になりかねません。

時が解決する?

時が解決する、という言い方が世の中にはあります。しかし、仏教では、そのような不親切な事は言いません。今ではない将来へ解決を持ち越すことはしませんし、大体、そのような事はあり得ないです。たった今のこの時に、既に解決済み、或いは、元々が解決するべき何物も無いです。そうでなければ、役に立たないです。
 これはもう、紛れ様の無い事ですが、紛れ様が無いので取り付く島が無いです。実は、取りつく島が無い・手掛かりが無い、というのがものの解決には簡単で直接的です。段階を踏んで・徐々に、ではなく、いきなりです。
 困っている時、悩んでいる時、悲しんでいる時、そのままで居るにはやはり切ないので、何かに縋り付きたい、支えてくれる何物かが欲しい、と思ってしまうのは人情としてあるのでしょう。しかし、縋り付いている支えになっている何物かがあるという事は、その困り事や悩みや悲しみがいつまでたっても解決しないし無くならない、という事でもあります。どんなに時が経っても、どうにもなっていないです。

 「たった今のこの時に、既に解決済み、或いは、元々が解決するべき何物も無い」、とは、どういうことなのか。 解決済み・解決すべき何物も無い、とは、理由の付けようが無いものです。
私なりの納得・私なりの理解、というものを求めがちな世の中ですが、実はそういう「私なりの」というのを止めると(もとより無い事ですが)、既に解決済みであった、既に救われ終わっていた、のです。これから解決や救いを得られるのではないです。たった今、既に、です。
これは、置かれている境遇とは関係のない事です。どんな時代どんな境遇にあろうとも、例外なく当てはまります。

日々是好日、て言うと、一日一日を大切に生きる、なんて言うんですか。でも、そんなんじゃないです。昨日や明日ではないこの一日、たった今に生きている以外にはありえないのですから、好日とは、努力目標ではないです。好日とは、人の思いや考えに因らないものです。好日に条件は無いです。好日と言うよりないのです。「私」という、「私なりの」という、そういう手がかり拠り所は全く無いです。ですので、宇宙が出来る前から、宇宙が消滅した後までも、一切の苦厄から免れ終わっているという、本日は好日です。

「私」という拠り所をやめるのは坐禅が唯一です。どうぞ坐禅しに来てください。

針のむしろ

人間関係で針のむしろみたいになっている人は、坐禅をしたらいいです。
居たたまれなくて、自分の居所が無くて、しかも自分の力ではどうにもならない。針のむしろみたいですが、これ、坐禅と同じなのです。ただ、坐禅は居たたまれなくて大安心です。居たたまれなくて針のむしろなのと、居たたまれなくて大安心なのと、何がどう違うのか。

坐禅に限らず生きているあらゆる場面においてですが、今申し上げる大安心とは、目に見え耳に聞こえ身体に感じるものの中に私というものの余地が全く無い、という事です。私というものの居所が、爪の先ほども無いです。自力というものの及ぶ事柄が一個も無いです。自力とは果たして何の事かなあ、という事です。そうすると、どうか。私の安心というものは無いです。私が大安心を得るのではなく、大安心が生活しているのです。
特別な境涯を言っているのではないです。元々、そのように出来上がっているのです。自分の事なのですから、誰でも確かめる事が出来ます。難しい事では無いです。
私というものの居所が無くて、どうやって生活するのか。「私」とはこしらえ事です。「私」とは実際ではないです。社会生活を営むためには、物を区別する必要があります。物を区別する為に便宜上「私」という見方を用いているにすぎないのです。

人の苦しみとは何か。道端に落ちている縄を蛇と見間違えてギョッとするようなものです。先入観・思い込みに因るものです。自分の身の上・自分の内容を問う、という事を、世の中では盛んに行っていますが、そういう事は実は成り立ち得ません。
人の安心とは、境遇には因らないものですから、誰にでも全く難しくない事です。自分はこんな生き様だから安心を得られないのだ、という事が一切無いです。このままでいいのだ、と言って自分を誤魔化す事も全くあり得ません。「全てを受け入れる」なんて世の中で言いますが、受け入れるも受け入れないも無い事です。

立つ瀬も無く、拠り所も無く、って言うと何だか不安なイメージがあるかもしれませんが、立つ瀬も拠り所も止めて下さい。
全く思いもよらないです。 

戒名

 最近、終活という言葉をよく目にします。自分の死に際の始末をどうつけるか、という事のようです。棺の中に入ってみる体験会みたいなのもニュースになっていました。また、生前のうちに自分の気に入った戒名を、とか、予め自分で考えて決めてしまう、と言う様な事もあるようです。しかし、これは戒名とは言えません。戒名とは、お釈迦様の弟子としての名前です。
 お戒名がつく前には俗名があります。世俗の中にあって「私」をたて、この「私」の身の上の出来事についてが生きる上での問題となる、その際の名です。
 お釈迦様の弟子になるとは、この「私」というものを捨てる、物心ついて以来それまでを過ごしてきた人生から卒業する。そういう修行生活に入ることです。ですから、どのような人生を送ってきたとしても、それまでの人生をなげうって、この「私」を捨てる修行生活に入る。この時にあたり、気に入るとか気に入らない、と言う「私」の勝手な言い分の立ち入る猶予はあり得ないのです。
 戒名を授かる前に、先ず懺悔という事があります。
 「私」の苦しみの根本の原因は、この「私」そのものです。ですので、この「私」を仏に返す。形式的な文言上の事柄ではありません。実際の事でなければ、その後のどのような修行も仏弟子の修行といえるものではありません。「私の修行」では、修行とは言えないです。どこまでいっても、苦の原因である「私」を増長させる事でしかありません。
 この懺悔の後に、仏・仏の教え・仏弟子に、身心をあげて帰依することを誓い、諸々の戒めを能く保つ事を誓います。
 戒名とは、これらの事の上で仏弟子としての名を、という事なのです。
 世間の事とは、「私」の身の上の良い事や嫌な事・七転び八起きの右往左往が、しょっちゅうです。
 仏弟子となって戒名を授かる。これは、世間の事=「私」の身の上の事、であり、世間という軛・「私」という首枷から出る=出家、という事を示すものです。お坊さんの名前に、愚や魯といった、愚かとか間抜けという意味の字がついていることがあります。これまでの自分を捨てる、という事を端的に示しています。
 「戒名というものは、結局は自分が死んでからの事だからどうでもいい」、と言う意見も、「私」という首枷の中での意見です。仏教が人の苦しみの解決を示し戒名がその証である、という事を、僅かばかりも妨げ得ません。肉体の有無もやはり「私」の上の事であって、肉体の有無は実は問題にならない、と自らの身心の上で証明してみれば、生死という事柄も既に解決済みであった、むしろ初めから問題になどなっていない。
 問題が無ければ答えを求めてうろうろする事も漠とした不安を抱える事も無く、只の人の只の日送りという日々是好日です。

bottom of page