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禅の教え

道元禅師 正法眼蔵 現成公案

仏道をならふといふは、⾃⼰をならふ也
⾃⼰をならふといふは、⾃⼰をわするるなり
⾃⼰をわするるといふは、万法に証せらるるなり
万法に証せらるるといふは、
⾃⼰の⾝⼼および他⼰の⾝⼼を脱落せしむるなり

曹洞宗 泉龍山 宗福寺

​住職 小林霊樹

自己をわするる
自分のことを考えない、自分を評価しない

 

 ⽣きながら死⼈となりてなり果てて思いのままにするわざぞよき   (至道無難『即心記』)

 死んで死んで死にきって思いのままにするわざぞよき        (川上雪担老師『語録』)

 「死ぬ」というのは、「⾃⼰をわするる」ということで、それは、「万法に証せられる」ことで、それは、「⾝⼼を脱落する」ということだということである。それは、自分は「自己をわすれて、そのまんまに⽣きているだけ」のはずなのであるが、「⾃分を何者かと⾒做す、「⾃分は〇〇だ」と⾃分で⾃分を決めつける、その分だけが「よき」でない原因となっている。」ということである。
 「「⾃分は〇〇だ」と⾃分で⾃分を決めつける」ことによって、「⾃分と⾔うものを確定しよう」とする。しかし、⼤乗仏教の「空」では、「法」が縁起して、「はたらき(⽤:ゆう)」が⽣じ、それを分別して、「もの」や「性質」があると誤解しているのだ」と⾔う。
 すなわち、『般若⼼経』の「⾊即是空」というのは、「すべての存在物は、性質(固有の実体)を持たずに存在している」ということである。だから、⾃分の性質もありませんし、他⼈の性質もありません。⾃分は良い⼈でもなければ、悪い⼈でもありません。他⼈も憎い⼈でもないし、悪い⼈でもありません。 だから、雪担⽼師が「 死んで死んで死にきって思いのままにするわざぞよき」と⾔っているのは、「⾃分が良い⼈になりたい、とか、⾃分の⽣き⽅が悪いのではないか、とか、あいつは悪い奴だ、とか、いうことをまったく考えなくなる、と⾃由に⽣きられるんだ」と⾔っているのです。
 人間は、「良い生き方」と「悪い生き方」と二つに分け(分別し)、「良い生き方とはこうなんだ」ということに固執したがる。これは法執(ほっしゅう)という煩悩(ぼんのう)である。
禅では、「良い生き方」と「悪い生き方」があるのではなく、「今生きていること、そのものが立派な生き方なんだ」という考え方であり、それを「いまを生きる」という。

そのまま
良い、悪いと考えない

 

 南嶽⼤慧禪師、はじめて曹谿古佛に參ずるに、古佛いはく、是甚麼物恁麼來。この泥彈⼦を遍參すること、始終⼋年なり。末上に遍參する⼀著⼦を古佛に⽩してまをさく、懷讓會得當初來時、和尚接懷讓、是甚麼物恁麼來。ちなみに曹谿古佛道、儞作麼⽣會。ときに⼤慧まうさく、説似⼀物即不中。

 南嶽懐譲禅師が、はじめて五祖慧能禅師に参じたとき、五祖が「是甚麼物恁麼來:そのままのものがそのままにあるとはどういうことか」と言われた。・・・八年間の修行の後に、再び、南嶽懐譲禅師は五祖慧能に参じて、答えるに、「説似⼀物即不中:⾔葉で説明すると似ているようでも、そのものではない」。          (道元禅師 『正法眼蔵』「第五⼗七 遍参」)

 「『あいつは、ああいう奴だ』としか⾔い様がない」      (川上雪担老師 『語録』)

 「『あいつは、ああいう奴だ』としか⾔い様がない」というのが、冒頭の「恁麼(いんも):そのまま」ということである。
曹谿⼭⼤鑑禪師、すなわち、六祖慧能が「是什麼物恁麼來(そのままのものがそのままにあるとはどういうことか)」と問うたのに対して、南嶽⼤慧禪師、すなわち、南嶽懐譲は「説似⼀物即不中(⾔葉で説明すると似ているようでも、そのものではない)」と答えている。
 雪担⽼師の「『あいつは、ああいう奴だ』としか⾔い様がない」というのは、「説似⼀物即不中(⾔葉で説明すると似ているようでも、そのものではない)」ということを⾔っているのである。
⼤乗仏教の基本思想である「空の思想」では、「⾊即是空」=「すべての存在物は空(性質を持っていない)である」から、「良い」、「悪い」などと⾔えないので、「それ」としか表現できません。「それは、〇〇だ」と⾔えば、「性質」を決めたことになって「空」ではなくなります。「それはそれ」としか⾔いようがないのである。この「それ」、「そのもの」、「そのまま」のことを禅語で「恁麼(いんも)」という。だから、雪担⽼師が「『あいつは、ああいう奴だ』としか⾔い様がない」とおっしゃっているのは、他⼈は「そのまま(恁麼)」に存在しているだけであって、「良い」も「悪い」もないとおっしゃっているのです。ですから、「そのまま(恁麼)」に、放っておけばいいものを、⾃分の⼼が勝⼿に他⼈を「良い⼈だ」、「悪い⼈だ」、と⾒て、そして、⾃分が悩んでいるのです。これを煩悩という。仏教、禅では、他⼈は「そのまま(恁麼)」なのですから、「良い⼈だ」、「悪い⼈だ」と⾒ずに、「そのまま」に⾒るしかないのである。
 このように「良い」、「悪い」と二つに分けて頭で考えることを仏教では「分別」と言い、「差別(しゃべつ)」と言う。仏教、特に禅、では「分別」は正しいことではなく、「無分別(分けて考えない)」を正しいとする。「良い子」と「悪い子」を分けて、「悪い子」にも良いところがあるので、「良い子」なんだというのは、「分別」である。すべての子どもがあるがままの、そのままで、「良い子」であるというのを、「無分別」という。この「無分別」を「平等」とも言い、「不二(ふに)」とも言う。

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